わが母校

校歌・復興歌・応援歌・同窓会歌

こちらでは「校歌」「復興歌」「応援歌」「同窓会歌」の楽譜、歌詞、解説をご覧いただけます。
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生野高校 「校歌」 音源(歌入り).m4a
兵庫県立生野高等学校 校歌

解説

 生野高等女学校と生野中学校が統合し、誕生したばかりの新制「兵庫県立生野高等学校」の第一回学校祭が終了した昭和24年10月11日の深夜のことです。湯沸かし場付近から出た火は瞬く間に燃え広がり、木造校舎を全焼させてしまうという大事件が起きました。そこで当時の校長だった亀井万三郎先生は、意気消沈している皆の心を一つにまとめる方策として、校歌の制定を思い付かれたのです。「校舎全焼という困難に打ち勝ち復興させるぞ!」という狼煙(のろし)が上がったのです。

 作詞は一も二もなく、当時すでに埼玉県浦和市に越されていた生野町口銀谷出身の今井広史先生に依頼。今井先生は姫路師範学校を卒業され、生野国民学校(現生野小学校)で教鞭を振るわれた方でした。作詞家としては50校以上の校歌を手掛けたほか、『日の丸の歌』『スポーツ日本の歌』『横浜開港百年の歌』など、数多くの楽曲を作詞しておられます。校歌に加えて「涙を拭(ぬぐ)え、いざ友よ、われらは勁(つよ)き不死の鳥・・・」と力強い歌詞で始まる、生野高校復興歌『不死鳥の歌』も作詞し、生徒たちを励まされました。

 作曲は、亀井万三郎校長が、適任者として最後の望みを託されたのが、音楽教育の大家で旧知の岡本敏明・玉川大学教授でした。そして、亀井先生の心情を即座に汲み取った岡本先生が白羽の矢を立てて紹介くださったのが、新進気鋭の若き作曲家、柳沢昭先生でした。柳沢先生は依頼を受けると直ちに生野を訪れて取材され、掴まれたイメージを基に私たちの校歌が出来上がったのです。

 柳沢先生は、「自然と人情に触れた感動を素直に曲に表現しようと思い、全身全霊で作曲に打ち込んだ」と述懐されています。

 そして昭和25年2月11日、校舎がまだ再建中だったため生野小学校の講堂を借りて校歌の発表会が開かれました。大変な出来事を乗り切った末に生まれた校歌。その響きは、参列者の胸にひときわ深く染みわたりました。生徒たちの心は一つにまとまり、校内に笑顔が戻ってきたのです。亀井校長は後に、「歌というものの偉大さをつくづく感じた」と話されています。