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校歌・復興歌・応援歌・同窓会歌

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生野高校 復興歌 「不死鳥の歌」 音源(歌入り).m4a
生野高校復興歌 不死鳥(フェニックス)の歌

解説 -生野高校復興歌- 『不死鳥(フェニックス)の歌』について

「不死鳥の歌」は昭和25年(1950年)2月11日、校舎がまだ再建中だったため、生野小学校講堂を借りて、校歌とともに発表されました。

炎の中からよみがえった生野高校と、力強い復興歌

 それは昭和24年(1949年)10月11日の深夜のことでした。湯沸かし場付近から出た火は、またたくまに燃え広がり、木造校舎全てを一気に燃え尽くしました。

 火災は、新制高校誕生後、初めての学校祭が開かれ、体育祭や校内展示、演劇会など3日間にわたる行事が終了した、その直後に発生したのです。

この前年には生野北高校(旧生野高等女学校が改称)と生野南高校(旧生野中学校)が統合し、新制高校が生野の地に誕生した矢先の出来事でした。当時の生徒たちの落胆ぶりは想像を絶するもので、皆、一様に泣き伏すほどでした。

学校の焼失は生野の町にとっても大きなショックでした。しかし直ちに復興を目指しての取り組みが始まりました。同窓会では当時生野にあった三菱鉱業の映画館を借りて映画会を開催し、1枚30円で切符を売って復興資金を稼ぎ出すことになりました。計画は当たり、焼失した備品を買いそろえる資金に、その収益を役立てることが出来ました。

一方、思わぬ置き土産もありました。当時、学校は予算を節約するために部活動を中止にしたものの、「生徒に希望をもたせる活動を」と、用具代などがかからない校内マラソン大会を開催。この行事は現在も続いており、マラソンは生野高校の「校技」となりました。また成績上位者を駅伝部として再構成したところ、グングン成績を伸ばし、昭和27年、昭和34年には兵庫県大会で優勝し全国大会に出場、また昭和39年、40年には近畿大会代表として全国大会に出場し、生野高校陸上部の黄金期を迎えることになりました。

校歌の作成も母校復興への取り組みの中から生まれました。

校歌作詞者の故・今井広史さんは生野町口銀谷の出身で、姫路師範学校卒。作詞においては、50校以上の校歌を手がけたほか、『日の丸の歌』『スポーツ日本の歌』『横浜開港百年の歌』など多くの歌を作詞されました。

作曲は、亀井万三郎校長(当時)が旧知の音楽教育の大家、岡本敏明・玉川学園大学教授に相談し、同教授の弟子である故・柳沢昭さんが引き受けることになりました。

そして、校歌と時を同じくして『不死鳥(フェニックス)の歌』も、火災からの復興歌として、今井・柳沢両先生の作詞作曲で作られたのです。

「涙を拭(ぬぐ)え いざ友よ われらは勁(つよ)き不死の鳥・・・」との力強い歌詞で始まるこの曲に、当時の教師・生徒達はどれだけ勇気づけられたことでしょう。

校舎は火災で焼失してしまったが、復興への燃えたぎる思いがある限り生野高校は不滅だという、エネルギーが湧き上がったのは言うまでもないことでしょう。

母校が戦後まもなく火災に見舞われたときに作られた『不死鳥の歌』は、私たち生野高校の復興歌であるだけでなく、今日の日本への応援歌として歌っても大きな勇気を与えられる名曲です。

(「神戸新聞」記事より要約)